欠陥模型大百科外伝・往時懐旧版

ENCYCLOPEDIA MODELLICA EXTRA  “Ten Years Gone” version

石川雅夫(MMI)
第12回モデラーズ・スペース展示会(2001年)

HJライター奮戦記 ”こーして私はライターした あるいは じじぃの懐旧的繰言”

Dr.Strangegloss OR:How I learned to stop worrying and love the pearl II.

 前回の外伝では、JAF-CON9模型コンテスト参加の経緯について書いた訳だが、今回は、私がHJライターになったいきさつを書いてみようと思う。

 「ライターになった経緯、ったってコンテストで賞取って、申込書のライター希望の欄にチェック入れてあったから『やる?』って言われて『ハイ』って答えただけでしょ?それ以外に書く事あるの?」
 
全くその通り。「今回の」ライター登用の経緯は実に単純至極であり、面白みなどカケラもないと言って良い。

 これは当会メンバー、及び当展示会常連の皆さんには周知の事であるが、私は今から15年程前にHJライターの末席を汚していた事がある。ここではその時の経緯について語ってみようと思っているのだ。

暗闇坂むささび変化

 正確に何年前だったかは忘れてしまったし、調べる気もないが、御茶ノ水に通っていた頃だから、大学の専門過程の時だった筈である。
 
当時私は通学の行き帰りの際、良く池袋で途中下車していた。ウチの大学(当時ノ文科系ニ限ル)は教養課程が明大前の和泉校舎、専門過程が駿河台となっていて、私の様に埼玉からJRで通っている場合は、新宿に寄る方が一般的なのだが、浪人時代に1年間高田馬場(「13時」の方ね)へ通っていた頃についた習慣なのである。
 駿河台だったら御茶ノ水だから、通常なら上野、秋葉原経由になるのだが、当時所属していたバンドサークルの拠点が和泉校舎にしかなかったので、明大前に行き易い様に通学定期をわざわざ池袋、新宿経由で買っていたのだ。その結果、当然の如く駿河台には殆ど行かなかった…。

 更に言えば、当時の新宿には私の2大関心事であった模型、楽器のいずれについても、面白いスポットがあまり無かった(特に駅周辺)のに比べ池袋には、今は亡き「ホビースポット・ユゥ」をはじめとして、どちらのジャンルにも充分面白い場所が沢山あったのだ。
 
本格的に模型を始めるきっかけも、「ユゥ」で1/700宇宙戦艦ヤマトとビッグマイティ号の再版を買った事だったし、初めて「ガンダム」と云う存在(”ガンプラ”ですらない)を知ったのも、西武デパートのおもちゃ売場で、1/144量産型ザク(今考えると1stロット!)が積んであるのを見て、元ネタも知らずに衝動買いした時が最初だった(当時のブーム状況を考えれば、これは奇跡的な遭遇といえる)。
 
当時池袋西武デパートのおもちゃ売場と云うのは、キャラクター模型関係の色々な催しを行っていた。現役HJライターだった川口氏(だったと思う)が模型製作の実演をやっていたのを見た事もあるし、1番凄かったのは、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだった「ストリーム・ベース」作品展だった。雑誌作例以外にも展示されていた中で、いまだに深く印象に残っているのは、「1/144フルスクラッチ ジグ・マック」(設定全高99m!)である。
 
「1/60グフ」もあった様に思うのだが、これが「あの」グフなのか、正確な所は覚えていない。当時の状況を考えれば違うか、とも思う。
 
そんな立ち寄り場所には、当然パルコ内のポストホビーも入っていた訳だが、当時は場所が現在とは違っていた。西武デパート寄りの階段に面した売場で、フロアも違っていた気がするが定かではない。今より明るい売場だったが、模型以外にもガン関係、そしてゲーム関係の商品を扱っていたのは今と変らない(ただし、このゲームは勿論ゲーム機のソフトではないし、カードゲームですらない。いまや絶滅危惧種として保護しても手遅れの感すらある、「シミュレーション系ボードゲーム」である)。

あしたてんきになあれ

 そうして、いつもの様にポストホビーを覗いていたある日の事、通路に面したショーケースの中身が一部整理されており、ガラスに「あなたの模型をショーケースに展示してみませんか?」と云う内容の貼り紙があったのだ。 そこはポストホビーの客以外にも目に付く場所だった事もあり、「1つ置かせてもらうか」と思ったのだが、丁度その時には、人前に出せる完成品が手元になく、唯一、ウチのサークル代表の同人誌オリジナルキャラを始めてキット改造でセミスクラッチしたフィギュアがあるだけだった。
 
「バンダイの300円ミンキーモモ」、なんて覚えているだけでも結構な年齢かと思われるが、あれが出てすぐ作った奴を、件のサークル代表に見せた所、「自分のキャラと顔の形が殆ど同じだから、これベースに改造して作ってくんない?」と依頼されて作ったフィギュアで、顔、脚、腕は殆どそのまま使っていた。
 
フィギュア自体、これ以前にはバンダイのうる星シリーズくらいしか作った事なかったから、目描きすら初めて。絵描きである代表氏にバランスの取り方等色々教わりながら、手探りでやっと作った物であり、当時は型取りなんてアマチュアには遠い存在だったから、最初からワンオフしか考えてなかった。

で、数日後、池袋ポストホビーにそのフィギュアを持って行き、貼り紙を見た旨を店員に伝えると、奥から店長さんらしき人物が出て来た。「なるほど」とかなんとか言いながら、カウンター上でしばらくそのフィギュアを見ていたのだが突然、「え~、それじゃですね、お手数ですが、こちらの方まで行って戴けますか」と言って、やにわにメモ用紙に代々木駅からの地図を書き始めたのである。
 
模型をショーウインドゥに飾るだけの事に何故地図?しかも代々木…、とこちらとしては訳が判らず、
 「え?あの~…」と言いかけると、
 「いや、実はあの貼り紙、HJのライター募集なんですよ」と爆弾発言。

 何だとぉ~!?

 「展示品募集としか書いてませんけど、持ち込まれた作品を見て有望そうだったら代々木の編集部に行って貰う事にしてるんです」
 「…」。 
余りにも予想外の展開に全く適応出来ないでいる私には、「これだったら多分、即採用だと思いますよ」とのありがたい言葉にもマトモな反応は出てこず、訳の判らないまんま代々木へと向かったのだった。

風来坊

 代々木に着いて、教えられた通りまずはビル1Fのポストホビーショールームへ声をかける。そしてそこの人に6FのHJ編集部へ連れて行って貰うと、先々代編集長のO崎氏(How To Build GUNDAM1,2当時の編集長である)と面会する事となった。
 恐縮する私、あちらはやはり「ふ~ん」とか何とか言いながらあのフィギュアを見ている(事情に詳しい人向けに書くと、現在メインの撮影室になっている所。当時は応接室にも使われていた)。と、O崎氏そのままスッ、と立ち上がり、ドアを開けて自分のデスクに向かったと思うと、数枚の設定資料コピーを手に戻って来るなり、
 「これやって貰えないかな」と差し出したのは、「ガリアン」主人公、ジョジョのキャラ設定画コピーだった。

 「え?それってライターとして作例を、って…」、
 「うん」。

 いや「うん」ってそんな簡単に言われてもそんな、ねぇ、ちょっとあ~た…。

ライターなんて話自体数十分前に初めて聞いたばっかりだし、元々私はメカモデラー。今日はたまたまフィギュアを持って来たけど普段はメカばかり作ってて、フィギュアを本格的に作ったのはこれが初めてだしスクラッチは未経験、だからいきなりフィギュアのスクラッチで作例ってのは…、なんてくだくだと言ってると、

 「いやー、こんだけ作れるんだから大丈夫でしょ。じゃ××日まで、って事で」

 と一言で一蹴され、「って事」になってしまったのである。

 結局、件のフィギュアがポストホビー池袋店のウインドゥーを飾る事はなかった。

春らんまん

 この時点では全く何が何だか判らず、突然目の前に現われた「雑誌の〆切り」なる物の重圧に振り回されるだけ、と云う状態だったが、時間が経つにつれて少しずつ状況が飲み込めて来た。
 当時はMG誌が創刊した直後であり、HJ誌からはメインの花形ライター諸氏が大量に流出した時期だった。つまりHJとしてはライター不足で正に「藁にもすがりたい」時期だったのであり、私はすがられた「藁の1本」だったのだ(これについては金賞ザク撮影の折りに、現在編集部にいる中で唯一当時を知っているH松カメラマンに聞いてみた所、「貼り紙で募集したかどうかは知らないけど、当時ホントにライター不足で困ってたのは確か」との証言を戴いた)。

ここまでの話を読むと、そのミンキーモモ改造フィギュアがよっぽど素晴らしい出来だった、みたいな印象を与えるかも知れないが、勿論そんな事は全くない。以前、当展示会に出した事もあるので、ご覧になった方もおられるだろうから嘘はつけないし、つく気もない。
 
これはつまり、いかに当時のHJ編集部がライター不足に悩んでいたかの証明であり、失礼な言い方をすれば、あの頃のHJはかなり「低い山」だったのである。

結局、なんとか期日までにデッチあげて納品。こうして訳も判らない内に、世にも珍しい「貼り紙応募のHJライター」誕生と相成った訳である。
 
ここで何故、単に「ライターデビュー」と書かないか、と云うと、実はそれ以前に、タコ系の方には幻の雑誌としてお馴染みの、「デュアルマガジン」で作例を作った事があるのだ。
 
これは、中学時代の同級生が、主にゲーム系のライターとしてこの雑誌に関わっており、彼もモデラーだった事から模型の記事も任されていて、「初心者向けの講座みたいなコーナーで作例やんない?記事はオレが書くから」と云う話に「やるやる」と気軽に乗った物で、雑誌作例なんて意識は殆どなかったと記憶している。 なお、「名前どうする?」と電話で聞かれ、偶然目の前にあったマンガの作家名を2つ繋げたいい加減なペンネームをその場で伝えたので、この記事は石川名義ではない。

夏なんです

 HJからはデビュー作納品後、しばらく連絡はなかった。向こうにしてみれば、一時しのぎの「藁」にすぎないんだから、今から考えれば当然の事である。
 ところがここで又別のレベルの人材不足が顔を出す。これは、何故最初の時点で、半ば強引にフィギュア(しかもジョジョ)をやらされたのか、にも密接に関係するのだが、当時のHJフィギュアモデラーは、「男性キャラを作りたがらなかった」らしいのである。

 で、エルガイムの別冊PART2を作る、と云う事になって、私に連絡が来た。「ダバ」、「キャオ」、「アマンダラ」等を作りたがる人間がいなかった事から、「男キャラでも黙って作るのはあいつくらいしかいない」と判断したのだろう。
 結局、「ダバ」、「アム」、「キャオ」、「ギャブレー」、「アマンダラ」、「フル・フラット」、「ポセイダル」を作ったと記憶しているが、最近めっきり老人力がついてしまったので、これが全部別冊だったかは定かでない。
 
確か別冊では4体だった様にも思うが、調べる気も起きないので知りたければ勝手にどうぞ、ってなモンである。ポセイダルだけは表紙になってるので間違いないとは思うが、こんな素人まがいのモデラーに大事な表紙モデルを任せなければいけないのだから、改めて当時のHJの苦しい台所事情が判ろうと云う物である。
 確かエルガイム関係のネタから、当時副編集長だったS藤氏(言わずと知れた後のHJ編集長、現DHM編集長である)が担当編集者になっていたと思うが、さすがにこれだけコキ使って、終わったらポイ、では悪いと思ったのか、それ以降、本誌の方でもコンスタントに使って貰える様になった。まぁ本人はいっぱしのライターになった気でいたのが今から思うと身の程知らずも良い所だが、幸せと言えば言えるかも知れない。

世間的には、HJライターになったらいろんな有名ライターさんと知り合いになれる、と云うイメージがあるだろうが、私に関して言えば、当時は殆どお会いした事すらない。
 
編集部で1度だけ佐藤直樹さんにお会いする事が出来たが、それもマトモに喋ってはいないし、佐藤氏が覚えておられない事は賭けても良い。
 あと当時編集部で会ったのは野島まさと氏。編集者に紹介されたらいきなり、「スタジオカッパの野島まさとです。仕事ください」と自己紹介されたのにはビビった記憶がある。
 
約1年余りの間に、この御二方以外には会った事すらないのである。
 
実はこの状態は現在でも殆ど変ってはいない。編集部でお会いして話した事のあるライターは大角さんだけだし、それもホンの二言三言(大体、ライターが編集部に来ている、と云うのはイコール打ち合せか撮影が殆どなのだから、ゆっくり話などしてるヒマなど滅多にあるモンじゃないのだ)。
 
後はJAF-CON10の会場で偶然、伊世谷、田村両氏とお会いしただけ。この時は割と長く話せたのが収穫だったが、ライターなんて言っても所詮外様はこんな物、ましてや当時は折り紙付きのチンピラ下っ端ライターだったのだから推して知るべしである。

 一応レギュラー扱いにして貰った時期がエルガイムの後半だった筈だが、ある日、打ち合せか何かで編集部に行った時の事、丁度、S藤副編集長がサンライズの新作発表から帰って来たばかりの所に遭遇した。
 
当時既に次回作はガンダムの続編と云う情報は流れていたので、「あ、ガンダム2、いよいよ発表になったんですか?」と聞くと、配られた資料を見せてくれた。
 
「へぇ~、『ぜっとがんだむ』って言うんだ」、
 「いや、『ぜっとがんだむ』って書いて、『ぜーたがんだむ』って読むらしいよ」、
 「ふ~ん、何でこんな名前にしたんでしょうね?」。
 
今考えれば、かなり間の抜けたやり取りに思えるだろうが、当時は「ガンダム」に新作続編があり得る、と云う事自体が非常に新鮮だった印象がある。早速、仲間内に、「新作のガンダムは『ぜーたがんだむ』って言うんだぜ」と吹聴してまわったのは言うまでもない。

かくれんぼ

 で、Zネタも含め、フィギュア系ライターとして毎月に近いペースでやっていて、順風満帆とまではいかなくともある程度軌道に乗って来たかな、くらいの勘違いはし始めていたこの時期の事。
 
本人は全く気付いてなかったのだが、既に体内では内分泌系の疾患がかなり進行していたのである。後から考えれば、暴飲暴食を続けているのに体重は増えるどころか減って行くし、他にも幾つか症状は出ていたのだが、全く深刻には受け止めていなかった(と云うより、「受け止めたくなかった」のだろう)。かえって、「おぉ痩せた」と単純に喜んでいた様な状況だった。

それまでは自発的に医者にかかる習慣などまずなかったのだが、ある時、風邪を少し長引かせてしまい、仕方なく1番近くの医院を初めて訪ねた所、私を一目見るなり、「風邪もそうだけど、あなた絶対ホルモン分泌おかしいよ」と指摘され、その場で血液検査をした。
 
偶然、この医師の専門が消化器と内分泌系だった事により、この時点で発見する事が出来たのは、今にしてみれば幸運でしかないのだが、その時点では産まれて初めての大病宣告であり、かなり動揺した。この病気に良く出る症状として、「情緒的不安定」と云うのがあるので、あるいはそれもあったのかも知れない。

 この時点では何の作例をやっていたかは良く覚えていない(Z別冊だったか?)のだが、それを終えた時点で、病気療養の為ライター活動をしばらく休みたい旨をS藤氏に伝えた。
 
この病気の療法は幾つかあるが、基本的には安静にしてさえいればそれ程の制約はなく、実際この後も入院する必要はなかった。ただ、この病気特有の症状として大きい物の1つに、「手指の震顫」(要するに指先の震え)があり、私にも結構顕著に現われていた。
 
それまでも同じ状態で作例は上げていたのだから、ムリすればなんとかなっただろうが、こう云うどうでも良い事に限って変に律儀なのが私の性格である。加えて、件の「情緒的不安定」も影響していたのかも知れないが、この状態でライターを続けては周囲に迷惑が掛かる、と勝手に思い込み、前述の休養宣言となった訳である。
 
殆ど引き留められる事もなかったと記憶するが、向こうにしてみれば元々1本の藁にしか過ぎないのだから当たり前の話だろう。後に、V.M.S.メンバーの誰だったかが、HJ編集長時代のS藤氏との会話中に私の名前を出した所、しばらく考えた後、「あぁ、あの病弱な人ね」とだけ答えたそうであるが、さもありなん、である(誤解して欲しくないのだが、この辺別に恨み言のつもりは全くない。本当にその程度のライターだったのは事実なのだ)。

無風状態

 勝手な思い込みで自発的に辞めたライターだが、いざそうなってみると、自分が載っていないHJを見るのはやはりツライ事ではあった。この時期からしばらく、HJだけでなく、模型雑誌と云う物を積極的に読むのを止めてしまうのだが、私がつい数年前までFSSに全く興味が無かったのも、センチネルに対する思い入れがゼロなのも、明らかにこの時期の「精神的模型隠居」によって、これらのムーブメントをリアルタイムに雑誌上でフォローしていなかった事が原因である。
 
とは云え、模型自体はずっと続けていた。病気も内科療法で早い内にホルモン値は正常になっていたし、後は薬を何時止めるか、と云う治療を数年続け、現在では治療薬自体飲んでいない状態が長い事続いており、年1回の血液検査も不要、と言われている。現状としてはまぁ、全快と云って良い状態だろう。

春よ来い

 佐山善則氏とは、代表氏(フィギュアの件で既出)の同人誌仲間として、彼が高校生の時代から代表氏を通じての顔見知りだった。
 
佐山氏は、この頃には出淵氏のアシスタントから一本立ちのメカデザイナーとして活躍を始めており、一方でPC用のゲームソフト開発にも関わっていたのだが、私の病状も一応回復した頃、当時出たばかりのジェガンを素組みしてプレゼントした事がきっかけとなり、佐山氏デザインのPCゲーム(PC-88SR用!)のパッケージ用バストアップモデルの製作を依頼され、引き受ける事になったのである。

いきなり佐山氏の名前が出て来るのは何故?との疑問は当然だが、ライターを辞めて以降、模型について確固たる何物をも持てなかったこの時期に、PCゲーム、「プラジェーター」で佐山氏と組ませて貰った事が、間違いなく今日の私の出発点となっているからなのだ。
 
デザイナーが1枚の画を描くのにどれだけのバックグラウンドを投入しているかを知り、我々モデラーはそれを如何に自分達の都合だけで捻じ曲げて立体にして来たか、を思い知った。そして、一流デザイナーの繊細な色彩感覚に触れ、その要求に少しでも応えなければ、と色彩理論の必要性に気付かされた、等、挙げて行けばキリが無い。これこそが様々な試行錯誤の出発点であり、金賞ザクの原点は、間違い無くここにあったと思っている。

それはぼくじゃないよ

 さて、HJ主催であるJAF-CON模型コンテストで、かつてHJライターの前歴を持つ人物が金賞を受賞した、となると、受賞者選考に何か裏事情があったのでは?と勘繰る向きがあるだろう事は想像に難くない。
 
「石川15年の野望!JAF-CON9模型コンテスト出来レース疑惑!!!」 なんてスレタイトルまで目に浮かぶ様だが、言うまでもなく、そんな裏事情は一切無い。
 
私個人の事なら別に何と云う事もないのだが、JAF-CONコンテスト、ひいてはHJ誌自体の信用にも関わる事なので、一応説明をしておく事にする。
 
まず、基本的な事実として、JAF-CON9模型コンテスト申し込み時点で、HJ誌編集部に私を知っている人物は一人もいなかった。
 
当時の担当だったS藤氏(唯一私と繋がる可能性のある人物)は既にDHMに移っていたし、そのDHM創刊時の大量移籍によってHJ編集部は若手中心の構成になっており、当時を知る人物はI藤編集長のみ。私ですら、当時I藤氏に会ったかどうか定かではないのだから、I藤氏が覚えていない事は間違いないと言えるだろう。
 
もう1人当時からいる関係者としてはカメラマンのH松氏がいる。H松氏はかすかに覚えてくれていた様で、後に自己紹介した時、「どうりで、どっかで見た顔だと思った」と納得したそうだが、それまでは、イベントで良く見かける顔なんだろう、ぐらいに思っていたそうだ。
 
また某所で、「今回の受賞者は、審査員の知り合いらしい」と云う書き込みを見た事があるが、あの時点で審査員の方とは1人も面識はなかったし、実は現在もそれは殆ど変らない。
 
厳密に言えば、MAX氏には、私がWON-FESで、MGゲルググ(講座に載せたアレ)を展示していた時に声をかけて戴いた事があったが、受賞後の別イベントでご挨拶した時にその事を話したら、当然と云うか全く覚えておられなかった。

 これ以外にも、細かい点はいくらでも挙げられるのだが、最後に1点だけ、「仮に何らかの裏事情があったとしたら、当時と同じ『石川雅夫』名義で記事を書くと云うのは自殺行為だろう」と云う事だけ行っておく事にする。少なくとも私はそこまでバカじゃないし、ましてや編集部が当然そこに気付かない訳がないだろう。

 ただ逆に、「一応ライター歴があるんだったら、申し込み時点でその旨を明記しておくべきだったのでは?」との意見もあるかと思う。これは後から考えると確かにそうだったかも知れないが、当時は全く思いつかなかった。
 
アピール文は、作例セールスポイントの説明でびっしり埋まってしまって、他の事を書くスペースがなくなったと云うのもあるし、いずれにせよ、前回も書いた通り入賞自体全く予想していなかったので、そんな事が問題になる事などありえないと思っていたのだ。

 だから、HJ自体、JAF-CON9当日には最後まで私の「前科」は知らなかった(当日の編集者の忙しさはハンパではない。余計な事を話す余裕など一切ない、と云う雰囲気だったのだ)。
 会場での簡単な打ち合わせで、作例の撮影には立ち合わせて欲しい旨を伝えておいたのだが、10日程経ってからだろうか、作例撮影の日程を確認する電話連絡があり、撮影場所である編集部の場所を説明しようとするので、「いえ、実は『ある事情』で場所は良く知ってます」とここで初めて「前科」をカムアウトしたのであった。

風をあつめて

 以前にエルガイム別冊で表紙作例は体験済みなのだが、あの時はその意味もあまり判らなかったし、正直何の感慨もなかった(今もない)のだが、金賞ザクの表紙は本当に嬉しかった。自分から勝手に辞めたライターではあったが、結果的に、「リベンジ達成」みたいな感慨はやはり大きかったし、ライター復帰もこの頃から現実感を持って考える様になる。
 
大変生意気な言い方になるが、ライターを辞めて以降も10数年模型に関わり続けてきて、決して「模型誌ライターがモデラーのゴールではない」事は実感したし、「その先」を模索する過程で金賞ザクも生まれてきた。
 
それを今更模型誌ライターをやる、と云うのは大してメリットはないし、やるとなったら塗装の技法解説が中心にならざるを得ず、それは10年かけて蓄積した物を、安価で切り売りする事になる。これは明らかにデメリットの方が大きく、当初はライター復帰をあまり前向きには考えていなかったのだ。しかしこの撮影、及び表紙掲載をきっかけに、「毒をくらわば皿まで」とでも云う様な気持ちが段々膨らんで来たのである。
 
最終的には、「技術なんてものは、多少の早い遅いはあれ、いずれ必ず追い越される。だったらいっその事、先手を打ってこちらから全部公開しちまえ」と云う気持ちに変っていくのだが、小関智弘氏と云う小説家の文章がこれに追い討ちをかけた。

熟練とかノウハウなぞというものは、かくさずどんどん人に伝えるほうがよい。これはわたしの体験だが、自分のありったけを人に教えてしまって、もう伝えるものはなにもないと思った瞬間から、自分が獲得しなければならないものが見えてくる(『かくせぬものは、恋と…』より無断抜粋)」

 小関氏によるエッセイの1節だが、氏は、作家活動をしながら、同時に現役の旋盤工として「現場」に立ち続ける、と云うスタンスを貫いた人物である。その「現場」からの意見は、モノを作る人間にとってジャンルを超えた普遍性を持つ言葉でありうる、と思えたのだ。

 さぁ、こうなったら大変なのはHJサイドである。当初は通常作例くらいの記事で説明できる物と思っていたのが、話が進むにつれ、「講座枠が必要」とか、「まず基礎を説明してから」なんて好き勝手を言い出す受賞者。さすがに、「講座を短期連載」等と言い出すに及んで、「それはムリ」とハッキリ宣告され、結果として、あの様な形に落ち着いたのであった。

福は内鬼は外

さて、講座をやる、と決心した段階で、大きなネックとなる事柄が浮かび上がった。
 
私が金賞ザクでやった事をきちんと解説しようと思うと、一般では入手できない材料を紹介せざるを得なくなるのだが、読者に入手できない材料使用を前提としては、講座その物が成立し得ないのである。
 
ネジ作りに使ったアルミ線もその1つであるが、これはかなり用途が限定される物でもあり、汎用性も低いと判断したので技法自体を図解入りで解説するに留めた。
 
しかしパール顔料についてはそうはいかない。既存の模型用パールでは粒子の大きさの点で、少なくとも私の基準には合わないし、かと言って金賞ザクに使ったパールは工業用途でkg単位でしか販売されないから、模型店流通どころか、東急ハンズでさえ入手は不可能だろう。
 
ここで思い出したのが真鋳削り出しオプションパーツ「富士1型」の事だった。これは元々、当会メンバーであるS方K造こと、T谷氏が企画、製造した商品であり、「フラグシップ」の販路提供で模型店に流通した物である。
 
同じシリーズの「ネジヘッド」では商品企画段階でT谷氏から相談され、10パターン程の案を提案した事などもあり、その商品化過程はある程度見ていたので、「同じ事をパール顔料で出来ないか」と考える様になったのである(尚、この時の案は全てボツった。「3mmネジに半円の切り欠きを入れて、0.5mmのネジと組み合わせた2重ネジ」なんてのばっかりだったのだから当然ではある。仕方なく金賞ザクには自作の2重ネジを多用する事となる)。
 
定量的に使用する為のデータは既に充分蓄積があり、幸い適当な容器、計量スプーン等の必要なオプションも見つける事が出来て、めでたく「MGパール」商品化と相成った訳である。

 某所で、「奴は、あのパールを売るためにライターになった」とか、「あんな講座ランタン記事じゃねぇか」と云う書き込みを見た事がある。
 
結果としてそう云う側面もない訳ではなく、こちらとしては特に否定する気もないので、実際の経緯は逆であった、と云う事実関係だけ言うに留めるが、まず「講座」をやる、と云う事が大前提としてあり、その講座を成立させる為の必要最低条件(これはHJからもそう言われた)としてMG、FGパールの発売があった訳で、こちらにしてみれば、講座の為にムリして商品化して貰った、と云う感覚が強いのだ。
 
だから、「フラグシップ」さんには感謝しているし、発売元の変更も、これ以上の負担を掛けない為に行った物なのである。  

はいからはくち

 前回、今回の「外伝」を読んで、「運の良い奴」と思われた方もいるかも知れない。まぁこちらがそう云う書き方をしてるのだからそう思われても仕方ないだろうが…。
 
確かに最初のライター登用はかなり運が良かったとは思うが、所詮運は運。受賞から現在に至るまで、この時代の活動を公に指摘する声がなかった、と云う事自体、当時の私がどの程度のライターであったかを端的に表していると云えるだろう。
 
更に今回のライター活動では、自分から望んだ事とは云え、10年近くかけた蓄積の殆どをこの1年で放出してしまった。格好良い事は言った物の、この年齢で更なる新ネタ開発と云うのはさすがに気が重いと云うのも正直な所ではあるのだ。

はっぴ「いいえ」んど

 金賞ザクを作っていた頃、何故だか自分でも判らないのだが、今更ながらの「はっぴぃえんど」を、どうした物か憑かれた様に聞きまくっていた。
 
オリジナルアルバム4枚が入ったテープ2本を、ダブルデッキに入れっ放しでエンドレスに掛けつづけながら、猛暑のなか汗だくで塗装していたし、それこそJAF-CON9当日の朝にも、「ゆでめん」と、「風街ろまん」の入ったテープ1本を持って、ヘッドフォン・ステレオで「春よ来い」を聞きながらゆりかもめで有明に向かったのを覚えている(あの受賞直後のマヌケ面写真でも首にヘッドフォンが掛かったままである)。

 冗談の様な話だが、どうやら本当に「春」は来てしまったのだろう。

 勿論、「ゴールは霧の向こう」ではあるのだが(「まだガソリンは残っているの」かどうかは怪しい…)。